オシム『また一から始められたら』

1月にSPOXに掲載されたイビチャ・オシム監督のインタビュー記事をご紹介します。インタビューアのFabian Zercheさん、掲載を快諾いただきありがとうございます。オシム監督の誕生日に合わせたかったのですが、1日遅れてしまいました。オシムさんとご家族がいつまでも健康であることを願っています。

Ivan Osim: “Ich würde gerne noch einmal von Anfang an beginnen”

『全てを聞く必要もないし、全てを言う必要はもっとない』イビチャ・オシムは、態度で示すかのように数センチ先のレコーダーを押しのけた。『何について話そうか?政治かサッカーか?サッカーの方がいいな』

私たちはグラーツ=ザンクト・ペーター地区にあるチャイニーズ・レストランの、入ってすぐ左側に座っている。この辺りでは誰もが食べたことのある特大春巻き。シェフのジョーはオシム家を昔からよく知っている。彼らはよくここへ来ていた。

籠の中の鳥

オシムはグラーツで長い時間を過ごしている。大きな成功を収めたこの街が大好きだからではない。『月曜日から金曜日まで毎日医者の予約が入っています』と、アシマ夫人は言った。向かい側に座り、注意深く話を聞いている。

元シュトゥルムの監督には2007年の脳梗塞が影を落としている。当時オシムは日本代表監督で、危うく一命をとりとめた。『医者は13年後にはもっと良くなっていると言った。私はそれをずっと待っている』オシムはSPOXに語った。

『まるで籠の中の鳥のように感じる。テレビでしかサッカーを見ることができないが、時々はスタジアムへも行く。それが最大の喜びだ。仕事がもうできなくなったことがつらい。サッカーの仕事をすることはサッカーを見ることとは違う。生き方も違えば、選手やゲームの研究も違う』そう言いながら、ソーヴィニヨン・ブランを一口飲む。『放送されている試合は全て見ている』

シュトゥルム・グラーツ:上昇と転落

78歳のオシムはシュタイアーマルク(シュトゥルム・グラーツのある場所)の偉大なアイコンの一人だ。彼は入って左側の席から定期的に入り口に目を向けたが、誰も彼に写真は求めなかった。ボスニア人はそのオーラを失っていない。

オシムのライフワークはシュトゥルムでの8年間に取ったカップやマイスタープレートではまとめられないだろう。グラーツの街をヨーロッパのサッカー地図に乗せ、母国のボスニアでは尊敬を集め、日本では今でも忘れられていない。オシムは今日に至るまで模倣できないゲーム文化と美学をグラーツにもたらした。

黒と白のサッカーの歴史は、もう少しのところで陰鬱なものになったかもしれない。ボスニア紛争(1992-1995)の頃、SKラピドはオシムと契約を結ぼうと動いていた。『政治的な問題がなければ、ラピドに行っていたかもしれない。その当時あるマネージャーが、オシムは反セルビアなので、ラピドの監督にはなれない、と語った。そのように伝えられた。難しい話だった』 オシムの家族の系図はウィーンに根差していた。『私はいつだって中立だった。確かにサラエボの副市長だったが、政治には全く興味がなかった』

ラピドの狭量な決定はSKシュトゥルムにとって世紀の幸運となった。オシムは1994年にシュトゥルムを引き継ぎ、2度の優勝と3つのカップタイトルを獲得し、CLのグループステージには3回出場した。それどころか2000年にはグループリーグを勝ち抜いた。『妻は私の最大のサポーターだ。彼女はいつもこう言う。シュトゥルムでは誰もが、チームが以前のようにプレーすることを望んでいると。私は言わない。あまりに危険すぎる』とオシム。『謙虚すぎるのよ』とアシマは手まねで反論する。

オシムは今日のSKシュトゥルムを「組織化された」と描写する。『人々は選手に何ができ、何ができないか知る必要がある。イヴォ(ヴァスティッチ)のように才能あるキッカーはいない。あるいはマリオのような速い選手も。あれからずっと人々は新しいマリオを探している』オシムはある若手を推す。ルカ・マリッチ。シュトゥルム・ユースのGK。『すごい才能だ。両足使い。スイーパーのようにも、ショートプレーもできる。ルカはそれどころかFKも蹴るし、シュートもうまい』

オシムは当時の「自分の」選手について話すことが好きだ。未だに彼のチームとは仲良しだということを熱心に話す。”ショッピ”、メーリッヒ、”フランコ”、ミラニッチ、コシジャン、“マリオ”、“イヴォ”とは今でも定期的に会っている。監督としてのオシムの最大の弱点はおそらく人の良さではないだろうか。スタメンを決めるために胃が痛くなり、誰もベンチに座らせたくなかった。数々のオファーがあったにもかかわらず、オシムがシュトゥルムに残ったもう一つの理由。

『規模の大きなもっと良いクラブからのオファーもあった。いつも自問自答した。そこで私は何をするのか?そういう選手たちと何ができるのか?常にテーブルを叩いて怒鳴るようなことはできない。選手があまりに優秀すぎる』オシムは思いにふける。『傲慢にならないようずっと心掛けてきた。レアル・マドリードが連絡してきた時もこう言った。本当に私があなたたちの求めている人物だろうか?控え目であることは大切だ。自らを正していかなければならない。もちろんビッグクラブの監督になれば、日々、選手から学ぶことができる。

しかし尋ねたいのは、選手が私のことをどう思うか?だった。あいつは誰だ?私はチームと普通に話ができなければならない。ここではローマン(メーリッヒ)と話すこともできた。マドリードではもしかすると足元に唾を吐かれるかもしれない』

グラーツでは誰もオシムの足元に唾を吐きかけなかった。2002/2003シーズンにシュトゥルムの組織に亀裂が生じ、FCケルンテンにホームで1-3と敗れて辞任した時も。『チームは定期的な手直しが必要だというのが、今日の私の考えだ。観客にとっても。わくわくするような新規加入選手が息を吹き込む。観客は新しい選手のためにもスタジアムへやってくる』オシムは回想する。

『結局、私たちは空になるまで汲み上げられてダメになった。その時にはメーリッヒとシュップという二人のベストプレイヤーがいなくなっていた。ドイツ人と小柄。とても重要だった。二人のミッドフィルダー。今日では水を運ぶ選手はさらに引く手あまただ』オシムは当時の問題点を語った。

『マメドフを長く留めておけなかったのが痛かった。ユランが来たのも遅すぎた。彼はキックが上手かった。フランコ(フォーダ)は怪我ばかりで機能しなかった。へとへとで、疲れ切って、ベテランの選手は消耗していた。何年もあまりに攻撃的に戦ってきたことで、力が失われていた。ローマン(メーリッヒ)も普通なら犬のように走ることができた。それがある時こう言った。「ボス、もうこれ以上できません」私は答えた。お前がこれ以上できないなら、他のやつもできない』

ジャンニーニのフェラーリ

オシムの時代にはシュトゥルムで非常に目立つ選手がプレーしていた。オシムは懐かしく思い出す。『イヴォがいた時は、チームははるかに楽だった。後になって選手はそれがわかった。シュッピはヨーロッパでの最初の試合の後、最も多くのオファーをもらった。大きくてスピードがあり、ヘディングが強い。ポリバレントでシュートもうまかった。私は言った。ここに残れ。その方が良い。そうやってプレッシャーをかけた』

しかし誰もがオシムの元でサクセスストーリーを書き上げたわけではない。ジュゼッペ・ジャンニーニに話が及ぶと、オシムはにやりと笑うしかない。ハネス・カルトニング会長は、イタリア代表で47試合に出場した彼を、ASローマからグラーツへと大騒ぎして獲得したが、1年後にはゲームメイカーはチームに別れを告げた。

『ジャンニーニ自身もうまくいかなかったことに驚いていた。こんなことは朝飯前だと思っていた。良い選手だった、と言わざるを得ない。しかしすでにスピードがなく、あまりに個性的過ぎた。技術は抜きんでている。見る目もそうだった。チームメイトは練習で彼から学んだ。小さなフィールドのトレーニングゲームでは彼のチームがいつも勝利した。優れたキッカーだ』

ローマで “イル・プリンチペ” と呼ばれていたジャンニーニの獲得は金の無駄だったが、ポジティブな効果もあった。『彼が来たことで、イヴォはブレイクした』メッセンドルフの魅力的な人材は法外な金額まで吊り上がった。『ジャンニーニは自分のフェラーリで練習に来ていた。若い選手が駐車場で待ちかまえていた。サインが欲しかったわけではなく、フェラーリでスピンできるか聞くためにだ』思い出して、オシムはにやりと笑う。

黄金世代

シュトゥルムの世紀監督はグラーツだけではなく、特別な選手を育てた。ユーゴスラビア代表監督の頃は、ドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ズボニミール・ボバン、ロベルト・プロシネツキ、ダボール・シューケルのような、当時20代前半だった選手をレギュラーの座に導いた。紛争が激化し、サラエボが空爆され、オシムは辞任した。大会の始まる10日前、ユーゴスラビアは1992年欧州選手権から締め出された。デンマークが繰り上がり、タイトルも獲得した。

『素晴らしい選手がたくさんいた。誰が良かったかを評価するつもりはない。一度、ローマン(メーリッヒ)に聞いたことがある。「誰が最高の対戦相手だった?」彼は言った。「サビチェビッチ。彼には近寄れなかった」』

ダチョウとキリン

オシム自身も優秀なキッカーだった。優雅なプレーから「ダチョウ」と呼ばれていた。ラシン・ストラスブールで攻撃的ミッドフィルダーとしてプレーした。自分が良い監督だったか、それとも良い選手だったかという質問にオシムは答えたくはない。『ストラスブールでは全ての選手が速かった。私だけが遅かった。本当だ。だが彼らは速い選手を使いこなせるゲームメイカーを探していた』

オシムの現役時代を取りまく寓話はたくさんある。そのうちの一つがイエローカードをもらったことがないというものだ。実はそうではなかった。『作り話だと認めるしかない。イエローカードは一度もらっている。ディナモ・ザグレブと対戦した時だった。私たちにここで勝っていたら、彼らの優勝だったかもしれない。私たちは素晴らしいチームだった。審判のことは決して忘れない。私のチームメイトが対戦相手に押され、ボールが手に当たった。スロベニア人の審判は押されたところを見てなくて、PKを与えた。文句を言ったら警告を受けた』オシムは回想する。

ラシン・ストラスブールでオシムはアーセン・ベンゲルと出会った。『私たちは良い友達だ』オシムはフランス人についてこう言う。『彼は中盤の右でプレーし、技術のある良い汗かき役だった。キリンのように大きな歩幅の正確な選手だった。アーセンはサッカーのことだけを話す。いつどこでもサッカー、サッカー、サッカーだけ』その当時、オシムとベンゲルはブンデスリーガを見るために、ドイツの国境を車で越えて定期的にカールスルーエを訪ねていた。『私たちは常に最新の状態にあり、セットプレーや走力がいかに大切かを理解した』

オシムとベンゲルは同じようなプレー哲学を作り上げてきた。美しく、ダイレクトで、攻撃的。『アーセンは選手たちに常にダイレクトでプレーすることを要求した。私も似たような考えで、ダイレクトのプレーを推し進めた。シュトゥルムの練習の後、見学者が私に何をしようとしているのかと聞いた。それから上達したので、後になって理解された』

お金の問題

今日ではサッカーは変わった。『選手は今や完全でなければならない。走ることができ、戦術とスピード。だが特に走力だ』とオシム。フィジカルを前面に押し出し、頂点に立っているのは、機械のような肉体を持つFCリバプールだ。『3人のミッドフィルダーがとても重要だ。全員がポリバレントで馬並みの肺を持つ。サッカーは以前よりもずっと一対一のデュエルに力を入れている』

ポリバレントという言葉が何度か出てくる。『良い選手はどこでもプレーでき、優位性を生みだす。後方もサポートする。それが私にとっての最高の選手だ。リバプールにはそういう選手が多い。特にフィルジル・ファン・ダイクが好きだ。世界最高のディフェンダーだ。守備をし、得点もとる。これ以上求めるものがあるかね?』オシム自身もグラーツで似たような選手を探していた。2000年1月に3千5百万シリングでウルグアイから来た、守備的ミッドフィルダーのアンドレアス・フレウルキンのような。『ビエラのようなミッドフィルダーがいることが当時の流行だった。背が高く、ヘディングが強く、プレーが上手い』

サッカーの発展のほとんどがオシムには気に入らない。特に商業化だ。『今日では金持ちのクラブだけが大きな成功を収めることができる。最高の選手と最高の監督を買って、ひっきりなしに取りかえるのだ。観客の不満を感じる。あまりに多くの金がつぎ込まれ、もうサッカーではない。サッカーは死んではならない。そうするうちにサッカーよりも金の話になる。金が優勝を勝ち取る。このことを誰もが徐々に考え始めなければいけない。規則を作ってみたらどうか。再び面白くするために』とオシムは警告する。

もう一度始める

2時間弱が過ぎ、アシマ・オシムは夫のペースを落とそうとする。『シュバーボ』と何度か口をはさんだ。友人や家族はオシムのブロンドの髪から彼をこう呼んでいる。

『もう一度最初から始めることができたらと思う。私はいつも一から始めてきた。だがそれも難しくなった。監督は以前よりも格段に良くなってきている。生き方も、分析も、話し方も違う。そしてチームを作り上げる前に、監督か選手のどちらかがチームを離れる。良いことではない』オシムはこう言って、だんだんと我慢できなくなってきた様子の妻をのぞき見た。

『シュバーボ、ここで食事をするの、それとも家へもって帰るの?』夫人は尋ねる。オシムは食べ物を持って帰りたい。『今日はサッカーがある』