ドイツ女子サッカー50年の節目 ~最初の得点者を探せ~

※ 下記のエントリーは、ヨコハマフットボール映画祭で上映される『壁を壊せ!〜ドイツ女子サッカー 台北の奇跡〜』に関するネタバレ(と言っても史実ですが)を含みます。

 今年はドイツで女性のサッカー競技が正式に許可されて50年の節目となります。

 1955年から1970年まで、ドイツサッカー連盟(DFB)に登録されたクラブにおいて、女性がサッカーをすることは公には禁じられていました。違反した場合は、クラブのライセンスが無効になる可能性もありました。それでも女性のサッカー熱は醒めることを知らず、1958年にはドイツ女子サッカー連盟が誕生、1965年までに約150もの非公式国際試合が開催されました。女性の組織が拡大し独立することを危惧したDFBは、1970年7月に女子サッカーを正式に解禁。しかし『女性は弱い性質』なため、スタッズ付きのスパイクは禁止され、競技時間は70分(のちに80分)と短く、その上6か月の冬休みを義務としました。サッカーをしたいという女性はその後も増え続け、1970年に5万人だった競技人口は、5年後には22万人近くに拡大しました。

 SSG 09 ベルギッシュ・グラートバッハの時代 

 50年の節目に、これまであまり語られることのなかったドイツ女子サッカー黎明期のエピソードが、数多く特集されました。『壁を壊せ!~ドイツ女子サッカー 台北の奇跡~』(原題:Das Wunder von Taipeh)というドキュメンタリー映画もその一つです。これは1977年から1989年の間に9度ドイツ王者となり、女子サッカーの一時代を築いたSSG 09 ベルギッシュ・グラートバッハの物語です。アンネ・トラバント=ハールバッハは、選手兼監督として77年にチームに加わり、そこからベルギッシュ・グラートバッハの黄金時代が始まりました。1981年、チームに一通の招待状が届きます。それは台湾で開催される女子サッカー世界大会(女子世界インビテーション大会)へ、ドイツの代表として参加しませんかというものでした。元々はDFBへ送られたのですが、連盟は女子の代表チームは存在しないと断っていたのです。

 台湾への渡航にあたり、DFBからのサポートは全く得られませんでした。彼女たちはマーケットでワッフルを売り、サイン会を行って渡航資金を集めました。市やメインスポンサーだった紅茶メーカー、サプライヤー契約を結んだアディダスなどの援助を得て、ようやく台湾に向かうことができたのです。

 ほとんどの選手にとって飛行機に乗るのも初めてのこと。台北ではサウナのような耐え難い湿度に慣れず、連日のスポンサーイベントも負担となりました。国民の祝日には軍事パレードに観客として参加。誰も中国語を話せず、町には英語を話す人もいなかったため、外へ出かけることにも不自由しました。楽しかったのは、トゥクトゥクの後部座席に乗り、乱暴な運転にハラハラしながら町を走ったこと。あとはスネークマーケット。 

 しかし台湾での大会は素晴らしく、町の中心にあるスタジアムは試合のたびに満員となりました。新聞でも大きく取り上げられ、台湾のテレビは試合を生中継しました。 

 彼女たちは4-3-3のマン(フラウ?)ツーマンでプレー。リベロを置くシステムも使いました。ベルギッシュ・グラートバッハはそれまで国際大会の経験がほとんどないにもかかわらず、練習で積み上げた戦術とテクニックで他国を押さえて優勝。女子サッカーの頂点に立ったのです。11日間で9試合、専門のドクターもいない中での試合は、想像を絶するほどハードなものだったに違いありません。28時間かけて帰国した彼女たちを、市長と市の代表者が空港で迎えました。さらに市庁舎前広場でも、多くのサッカーファンが彼女たちの偉業をたたえるために集まりました。ただ、地元では大きく報道されたものの、その他の地域で取り上げられることはありませんでした。

 翌年、DFBはドイツ女子代表チームを正式に招集、初めての国際試合を行いました。女子ブンデスリーガが正式に発足するには、そこからさらに8年かかりました。ベルギッシュ・グラートバッハ女子チームの孤軍奮闘がなければ、もしかするとドイツ女子サッカーの歴史は、ここまで急激に変わってなかったかもしれません。

 

 「最初の得点者を探せ」

 1990年に始まった女子ブンデスリーガも、DFBの扱いは男子のように手厚いものではありませんでした。

 ドイツ女子ブンデスリーガで記念すべき最初のゴールを決めたのは、SVヴィルヘルムスハーフェンのイリス・ターケンというのが長年の定説でした。Wikipedia(現在は修正済み)を見ても、Googleに聞いても同じ返事が返ってきます。開幕の日、イリスは開始55秒でゴールを決めたと言われていました。

 Frauen reden über Fußball(FRÜF:サッカーについて語る女性たち)というPodcastは、女性とサッカーに関する多くのテーマを取り上げています。ある時、FRÜFのTweetに対し、フレディという女性が最初の得点者についての疑問を投げかけました。当時15歳だった彼女は、GKとしてFSVフランクフルトと対戦、5失点した記憶を語りました。試合は11時キックオフでした。調べていくと、当時の女子ブンデスリーガは、11時と14時という2つのキックオフ時間があったことが判明しました。もしヴィルヘルムスハーフェンの試合が14時だったら、それより前の試合でイリスよりも先にゴールをあげた選手がいるはずです。

 FRÜFのメンバーはまずDFBに問い合わせました。連盟は自身の発行した雑誌の記事を元に、イリス・ターケンが最初の得点者であるという記述を示しました。しかしそこには公式記録の裏付けはありません。さらに問い合わせたところ、DFBには90年から97年までのサウスリーグの出場記録も存在しないことが判明しました。FSVフランクフルトの出場選手名を探すには、それぞれの地域サッカー協会か、クラブに当たるしかありません。男子ブンデスリーガは1963年の設立以降、すべての試合の記録がデータセンターに残されています。女子のデータが同センターで参照できるのは、リーグが始まって13年後の2003/2004シーズンからです。

 最初のゴールをあげたのは本当にイリス・ターケンでしょうか。疑問を持ったFRÜFのメンバーは調査を続け、地元の新聞や地方のサッカー協会の記録などあらゆるものを探しました。解散してすでに存在しないクラブも多くあります。地道な調査の結果、興味深い記述が見つかりました。ヴィルヘルムスハーフェン新聞によると、対戦相手が開始56秒に先制したと書いてあったのです。そもそもイリスの得点ですらなかったということでしょうか?しかしノルトヴェスト新聞には、イリス・ターケンが2分にゴールを決め、ホームチームが先制したとありました。当時の新聞ですら情報が錯綜しています。ただ14時というキックオフ時間は一致していました。誰が先制したにせよ、リーグ初ゴールにならないことは明確でした。11時からの試合は、5ゴールをあげたFSVフランクフルトを含め、全部で3試合あったからです。

 彼女たちはさらに調査を続け、ついに得点者を探し出しました。11時5分にFSVフランクフルトのカチャ・ボルンシャイン、さらにSCバートノイエナー07のカルメン・シェーファー(11時9分)、 SGプラウエンハイムのイングリッド・ツィマーマン(12時2分)が続きました 。最初の得点者とされていたイリス・ターケンは10番目だったのです。

 FRÜFのメンバーはカチャに連絡をし、彼女が最初のスコアラーであったことを知らせました。『私はずっとそう言ってきました』とカチャ。しかしDFBの経歴ページには、FSVフランクフルトに所属していたことすら記載されていません。カチャは代表にも選出されたほどの選手ですが、『DFBによると私はFSVでプレーしたことはなかったことのようです』

 その後も彼女たちはDFBにカチャの経歴の修正を頼んだり、ドルトムントにあるドイツサッカーミュージアムに女子の記録を展示するよう働きかけました。DFBは最初の得点者がカチャであることを発表し、彼女のインタビューを公式サイトに掲載しました。しかし未だに経歴ページにSCフライブルクだけしか掲載されていないのは、失われたサウスリーグのデータをDFBが積極的に収集する気がないということを表しています。

 現在のドイツ女子サッカーがあるのも、知られざる先駆者の努力があってこそのもの。ドイツ女子サッカーが正式に許可されて50年、女子ブンデスリーガが始まって30年。DFBにはぜひ今年だけでなく、これからもパイオニアへの敬意を示し続けてほしいものです。

※参考資料

『アンネ・トラバント=ハールバッハのインタビュー(Zeit紙)
ドイツの女子サッカー(Wikipedia:ドイツ語版)
『最初の得点者を探せ』(Zeit紙)
女子世界インビテーション大会(Wikipedia:ドイツ語版)

 

※『壁を壊せ!~ドイツ女子サッカー 台北の奇跡~』は2021年1月YOKOHAMAフットボール映画祭で上映予定です。(映画祭は延期となりました)