ユダヤ人犠牲者のための記念碑とオットー・ファイスト

少し前のニュースですが、1月30日、スタジアム内のTausend-Freunde-Mauerに、第二次世界大戦で犠牲になったユダヤ人クラブメンバーのための記念パネルが設置されました。
映像の中でも触れていますが、ゲルゼンキルヒェンで肉屋を営んでいたレオ・ザウアー、ユースの選手だったエルンスト・アレキザンダー、またクラブの役員だったパウル・アイヒェングリュンなどの名前があります。
映像ではまた、アイヒェングリュンのご家族がご挨拶をしています。

2013年1月30日はナチス・ドイツが1933年に政権を掌握してから80年の節目となります。具体的に言うと、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)を率いるヒトラーが首相に任命された日です。ベルリンではナチスによる犠牲者の追悼式典が行われました。

ところで、シャルケとナチ時代というのは、なかなかに興味深い関係があります。
1930年代から1942年にかけて、ナチス第三帝国時代に6回ドイツマイスターになっていることから、労働者のクラブ・シャルケは、ナチスのプロパガンダに使われたのではないかという研究も行われています。
これはシャルケミュージアムでも、パネルで詳しく紹介されています。

また、38年、40年、42年と3度マイスターになった当時の監督であるオットー・ファイストは、NSDAPの党員であり、国家社会主義者でした。
シャルケのドイツ語Wikipediaを見ても彼についての記載は一切なく、前監督のシュミットの時代に優勝したようにも受け取れます。戦争へと突入したこの時代の記録はかなり損なわれており、オットーの息子のマンフレッドが、父の記録を寄与したことで今回わかったこともあるようです。
少しだけですが、マンフレッドが資料を寄贈した時の話が、WAZのサイトに出ています。(『Fünf Kilo Papier, die es in sich haben』
オットー・ファイストはその後、東部戦線に招集されソ連軍の捕虜となり、1946年に収容所で亡くなりました。
これはシャルケの会報誌であるSchalker Kreiselでも詳しく特集されました。

ナチス時代のドイツサッカーについては『ナチス第三帝国とサッカー』という本がたいへん詳しいです。
シャルケについても一章が割かれています。