サッカーと暴力と政治の狭間で

(写真は内容とは一切関係はありません)

今年の8月、旧東ドイツのケムニッツで大規模な極右のデモが行われました。デモにはかなりの数のフーリガンが参加しました。なぜフーリガンは極右化するのか。事件の後、Zeit紙に、『フーリガンは自らを”民意を執行しているだけ”とみなす』という興味深い記事が出ていました。

インタビューに答えているのはロベルト・クラウスさん。彼は右翼急進派を研究している専門家であり、1年ほど前に『Hooligans – Eine Welt zwischen Fußball, Gewalt und Politik』(フーリガン – サッカーと暴力と政治に挟まれた世界)という本を上梓しました。

Zeit紙は、サッカーとそれを取り巻くファン文化について、定期的に鋭い内容を掲載しています。2015年あたりから読み続けていると、各地のサッカースタジアムでの勢力分布図が、刻々と変化しているのが見えてきます。スタジアムの風景は切り離された空間ではなく、ドイツ社会の変化に深く影響を受けます。Zeit紙のインタビューも面白かったのですが、2017年11月に、Sportschauに掲載されたクラウスさんのインタビュー記事がより一般的な内容なので、そちらを訳すことにしました。Sportschauは日本で言うなら、NHKのサタデー/サンデースポーツのような存在です。1970年代から90年代にイメージされた『フーリガン』が、現在ではかなり姿を変えて残っている様子がよくわかると思います。

 


Hooligans – “Politik und Gewalt werden in Fankurven ständig verhandelt”

クラウスさん、まず最初にお聞きします。フーリガンとはいったい何でしょうか?

フーリガンは1960年代に英国の労働者階級から生まれた、暴力的で、極めて男性的な若者文化です。彼らは暴力を通じて社会参加や抗議を試みました。最初はダンスやディスコイベント、そしてすぐにサッカー。特に80年代と90年代には、ドイツのスタジアムでよく見られるようになり、ドルトムントの『ボルセンフロント』やシャルケの『ゲルゼンツェーネ』などのグループがありました。

2000年頃にドイツでは突然消えてしまいました。なぜでしょう?

いくつかの要因があります。1998年のワールドカップで、ドイツのフーリガンはフランスの警察官ダニエル・ニヴェルを殴打して死なせています。その結果、警察の抑圧とクラブの対抗策が大幅に増えました。加えて、ウルトラスの活動があります。多くのスタジアムで、ウルトラスが主導権を握ったのです。こういう拡大は、フーリガンのメンバーがサッカーからかなり遠くへ離れたことを意味します。彼らは畑や野原で、明確なルールに従って殴り合って戦う、いわゆる『アッカーマッチ』(フーリガン同士の乱闘)を行いました。並行して、専門化も見られます。今日ではソーシャルメディアを通して、20年前よりもはるかにそういうものを見ることができます。全く消え失せたというわけではありません。

専門化とはどのようなものでしょう?

第一世代の『フーリガン』は、武術も素人で、国際的なネットワークも、ソーシャルメディアの組織もなく、暗号化もされていませんでした。新しい世代には全てが当てはまります。彼らは武術とキックボクシングを身につけ、ライプツィヒの『インペリアル・ファイト・チーム』のように、ロコモティフ・ライプツィヒ周辺のフーリガンが設立した半プロのようなものもあります。また『アッカーマッチ』は暗号化されたネットワークで準備します。

こういう専門化によって危険は増していますか?

サッカーの試合環境での危険性は、80年代や90年代よりはるかに低くなりました。『アッカーマッチ』はフーリガンだけで行われ、通常のスタジアムに行く人たちは含まれません。

でもあなたは本の中で、フーリガンの暴力が外部へ持ち出されることについても書いています。それはどのようなものですか?

ひとつの例がライプツィヒです。2016年にPegida(西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)が創立記念日を祝った時、約250人のネオナチがコネヴィッツのオルナタティブな地区を襲いました。ライプツィヒと周辺からは多くのフーリガンが参加しました。

外部への暴力の唯一の例ではないですよね。2014年のサラフィストに反対するフーリガン(HoGeSa)も記憶に新しいです。

HoGeSaでは、暴走族やガードマンといった40歳より上のフーリガンが姿を見せました。難民をめぐる議論の過程で抗議活動がありました。古いファイターにとって、自分の力を誇示する機会だったのです。一方で忘れてはならないのが、多くのフーリガンはプレカリアート(雇用の不安定な労働者階級)であり、老後の貧困はほぼ確定的です。右派の社会抗議活動は、難民を共通の敵とイメージすることで一致しました。

一つの要素として、右寄りの生活環境もあるように見えます。これはここ数年多くの議論となっているスタジアムでの右傾化とも一致します。フーリガンが再び勢いを増してきたことと関連ありますか?

慎重にならないといけません。多くのフーリガンはネオナチですが、全てというわけではありません。動きはむしろ暴力団です。右傾化が社会全体レベルで起きていて、サッカーだけが無縁というわけではありません。近年、多くの右翼、暴力的なグループが分裂し、他のファンに暴力による圧力をかけています。このような例はアーヘンやドルトムントやベルリンで見られます。彼らの一部は右派政党やAfDといった政党の近くにいます。

現在、どの場所が激しく競っているのでしょうか?

ザンクト・パウリやバベルスベルクのような、古典的な左寄りのメンバーがいる場所以外は、ほぼどこでも激しく争われています。はっきりしているところもあれば、それほどでもないところもあります。ファンシーンはあまりに単純に区分化されすぎています。ひとつの例はケルンです。何年もの間、人種差別と戦ってきたウルトラスのグループがいます。それと同時に、暴力的なウルトラスとフーリガンの一部は、ロシアの極右な武闘派集団とネットワークで結ばれています。

極右を背景とするグループと関係を持つ暴力的なウルトラスですか?(ウルトラス)のメンバーは最近では、非暴力的で政治的には啓蒙を受けた態度というイメージを示しています。

史実の記録は時にあまりに単純化されすぎています。最初に右寄りで暴力的なフーリガンがいて、その後は左寄りでコレオに関心があるウルトラス。これではあまりに乱暴すぎます。右派の過激主義や暴力に反対の立場をとるウルトラスもいれば、一方で暴力や極右に近い立場の人たちもいます。この範囲の周辺では全てが見つかります。ただ現在のファンによる抗議活動では、フーリガンは何の役割も担っていません。

ゴール裏は、ウルトラスのものですか、あるいはフーリガンですか?

それもひとまとめに答えることはできません。ウルトラスとフーリガンがゴール裏の勢力争いをしているところもあります。例えばブレーメンでは、古い右寄りのフーリガンに対抗していた若いウルトラスのグループが優位に立ちました。カイザースラウテルンのような他の場所では、古いフーリガンのフラッグが、ずっとウルトラスのフラッグの隣にかかっています。最終的には、フーリガンの暴力とウルトラスの高い自己組織力が結びついたグループも出現しているので、明白な分類はほとんどできません。結局のところ、政治と暴力は絶え間なく議論されています。

それだけではなく、忘れてはならないのは、私たちはファンシーンのことは、大きな群衆として語ります。ドルトムントではサウススタンドに2万5千人がいます。私たちがフーリガンや暴力的なウルトラスについて話す時は200人以下のことです。それはスタジアム全体の1000分の1という数字です。

最後にフーリガンというテーマでは2018年ワールドカップを省くわけにはいきません。2016年ユーロにおけるロシアのフーリガンの暴動後、多くの人がロシアについて不安な目をむけています。何が待っているでしょうか?

ロシアのフーリガンは武術を訓練し、一部は軍隊のように組織され、とりわけ例外なくネオナチを取り入れています。しかしロシア政府はワールドカップを台無しにする気はもちろんありません。ちょうど1年前、右翼の古いフーリガンだったロシア・ファン連盟のトップが、メディアの会議で逮捕されました。それは警告を送るために演出されたものでした。ロシアのフーリガンは、ワールドカップ期間中は、都市部ではあまり動かないという暗黙の取り決めがあるかもしれません。しかし慎重になることは必要です。

 

※ 文中に出てくるFanszenen(ファンスツェーネン)について。

うまく訳せないので、時々『ファンシーン』と英語風に書いてお茶を濁したりしています。元々は舞台の『シーン』で、芝居小屋などの小さな場所で演じられる『何か』だったり『何かが起こる場所』という意味合いを持っていたようです。今は、同じ志向、考え、興味を持つ人々の、自由意思による緩やかな社会的ネットワークを指しています。『人々が集い、何かが起きる場面』としては、コレオもファンシーンという言葉に深く結びついている気がしますね。

フーリガンという存在を知ったのは、ビル・ビュフォード著『フーリガン戦記』という本でした。なぜ読んでみようと思ったのかは忘れました。翻訳はかなり読みにくいのですが、それすらも乗り越えさせてしまうパワフルな本です。1994年刊行なので、第一世代のフーリガンの話であり、上記のインタビュー内容から比較すると、もっと根源的にも思える群集心理を扱っています。それだけにとても怖いです。人々が集まると、そこには個々の意志とは別の群集という生き物が出現する。それは一体何なのかを突き詰めようとする本でした。現在の日本でも当てはまる要素はあるかもしれません。