小説『フーリガン』を読む

フィリップ・ヴィンクラーの『フーリガン』(原題 Hool)は、タイトルからして暴力的なサッカーファンの話と片付けられそうだが、それだけにとどまらない素晴らしい小説だと思う。 実際のところ文学作品としての評価も高く、ドイツヴェレは『フーリガン』を歴代ドイツ必読小説100にも選出している。

誰しもが持つ将来への不安や深い孤独、家族の問題、地元のサッカークラブへの愛、仲間とのすれ違い。ヴィンクラーは一人の若者の目に映るものを正確に描き、感情の流れを細やかに追う。小さな希望の光が差すエンディングは温かく、読み終わった後も、何度か記憶の中から引っ張り出してきて余韻を楽しんだ。

物語は主人公のハイコが使っているマウスピースの描写から始まる。フーリガン同士で約束した決闘のために、ハイコは車でケルンへと向かっている。運転しているのはスラブ系のヘラー。助手席にはハイコのおじであるアクセル。ハイコの隣には子供のときからいつも一緒のカイ。今回のフーリガン同士の対決は、アクセルに言われてハイコが初めて手配をしたものだった。

(小説の引用に当たっては英語版『Hooligan』のKindleから訳しています)

「両掌で新しいマウスピースを暖めた。指先で回し軽く噛み締める。戦いの前には必ずそうしている。プラスティックはやや弾力がありしっかりとはまった。優れものだ。これより良いものはほとんど手に入らない」(”Hooligan” 位置No.52)

ハイコにとって、フーリガン仲間のカイ、ウルフ、ジョジョは家族のような存在だ。彼自身の家庭は崩壊している。父親のハンスはアルコール依存症で、母親は彼が幼い頃に家を出て行った。姉のマヌエラは父の世話で苦労しながらも、理想の家族像を捨てきれない。ハンスがベトナム旅行をした時につれてきた後妻のミーとは、ハイコは言葉を交わさず、存在を無視し続けている。

そんな中、親友にして仲間のカイにアクシデントが起こる。発端はハノーファーの最大の敵である、ブラウンシュヴァイクのフーリガンを襲撃に行く計画だった。報復が報復を生み、暴力は思いもかけない形で親友の上に降りかかる。

それを機にハイコを取り巻く人間関係は少しずつ変わり始める。ジョジョはハノーファーのユースチームでコーチの仕事に専念するようになった。ウルフは家族との生活を優先し、ハイコに批判的な態度をとるようになる。そしてカイは……。ハイコが家族のように大切にしてきた仲間がそれぞれの道を歩み始め、まずウルフがフーリガン活動を拒絶したとき、ハイコは自分でも止めることのできない心の声をもらす。

「お前には家族がいて、家もあって、白いすげえ柵もついてる。要するにお前らはみんな楽しみにできるものがある」
やめた方がいいとわかっていても、やめられなかった。かわりに俺は吠え続けた。
「ジョジョはコーチの仕事をやり通すだろうし、カイは元通り治ったら、勉強を最後まで終わらせて実入りのいい仕事を得るだろ」
やつらがこの場にいないかのように、こんなことを言いたくはなかった。でも止まらなかった。
「俺には何もない」   指でゼロを作った。「何も」
「ここにあるものが」仲間を包むように宙に円を描いた。「俺の全てだ。ほかには何もない」(”Hooligan” 位置No.2870)

ハイコが住んでいるのは、大規模なアニマルファイトを違法に行っているアルニムの農場だ。ここにはビッグフットとポボルスキという2頭のピットブルがいる。飛ぶことを忘れた鷲ジークフリートはいつも部屋の窓から外を見ていた。アルニムは新しく虎を迎え入れるために大きな穴を掘った。ハイコはアルニムの虎話をただの夢だと思っていたが、実はそうではなかった。アルニムのお供をしてハイコはロシアの国境へと虎を迎え入れる旅に出る。

物語は現在と過去とを行き交い、読んでいるパラグラフが今なのか過去なのか、時々戸惑う。しかし脈絡もなくふいに現れる記憶は、過去と切り離せる現在がないことを意味し、ハイコの人物像にも深い陰影を与える。

ハイコにとって自分の住む街のサッカークラブは切り離せない存在だ。ハノーファーのGK、エンケが亡くなった時の様子も回想の中にはさまれる。街の人々が手に赤いろうそくを持ち、黙ってスタジアムへ向かう様子を、どこか現実味を感じないまま見ているハイコ。そんな中、ジョジョは帰り道で「あの場所へ行きたい」と言い出す。

「どの場所だ? 」 とカイ。
音楽が消えた。ウルフがリアミラー越しにちらりと後ろに目をやるのが見えた。
「電車が通過したとこさ。イヤならお前らは来なくていい 」
「待てよ、ちょっと待ってくれ。いったい何のことを言ってるんだ? 」 ウルフは口ごもった。俺はジョジョが『通過』 という言葉を口にしたときにわかった。だが何も言わなかった。できなかった。
「自殺したところ」
「誰が? 」 カイがたずね、一瞬振り返った。たぶんジョジョがおかしくなってないか確認するために。狂った目つきとかそういうやつ。
「エンケ 」(”Hooligan” 位置No.894)

ジョジョと仲間たちの緊迫したムードには深い理由があり、それも小説の中で明かされていく。

おじのアクセルはフーリガン活動のコントロールをハイコに譲るそぶりを見せながらも、決して実権を手放そうとはしない。最近ではアクセルのジムにネオナチが出入りし始め、ハイコをいらだたせる。そんな中、ドイツカップでハノーファーの対戦相手がブラウンシュヴァイクに決まった……。

今ではスタジアムでダービーの勝利を願うよりも、暴力でブラウンシュヴァイクを倒すことを選ぶハイコだが、小説の終盤にはさまれる回想シーンでは、父親と初めてハノーファーの試合へ行った時の様子が描かれる。

親父がどんな風に寝室に俺を呼びよせたかをまだ覚えている。戸棚にかかっていた大切なベストを、どんな風に出してきて袖を通し、どれほど幸せで満足した様子だったかを。親父はかがんで俺をぎゅっと抱きしめ、ベストに縫い付けたいっぱいのパッチの一つを指で叩いた。大きな黒い96。「これはなかなかのもんだ、わかるか、96。よー、ハイコ、なかなかもんだぞ」
俺はうなずいて黄色い指の下のパッチを見た。俺たちはママとマヌエラに行ってくると言った。二人が俺のことを羨ましく思ってくれと願ったことを覚えている。俺は一人の男としてスタジアムへ行くのだから。だが二人はテレビを見続け、興味すら示さなかった。そんな振りをしているんだと本気で思った。(”Hooligan” 位置No.3732)

本来の家族はどこかの時点で壊れ、友人という家族も自分から遠ざかりかけている。過去の記憶や拠り所に引きずられ、新しい関係を模索しながら、ハイコの毎日は続いていく。幼い頃の自分に確かにあった場所がもうない。帰属する場所をどうしても見つけることができない。『Hooligan』は今を生きる多くの若者のリアルな声でもあり、それゆえに深い共感を呼ぶのだと思う。